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【歴史】関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか?

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1: 2016/09/15(木) 21:31:29.77 id:CAP_USER9

416年前の本日9月15日は、あの「関ヶ原の戦い」が行われた日だ(ただし旧暦)。戦いに勝利した徳川家康は、ついに幕府開設へと突き進むことになる。文字どおり、関ヶ原は「天下分け目の戦い」だった。この戦いで、当初「勝利は間違いない」と見られていた石田三成率いる西軍は、わずか1日で敗北した。

一般的には「小早川秀秋による裏切りによって勝敗が決まった」とされているが、その裏切りを後押しした「真の裏切り者」の存在はあまり知られていない。「その戦国武将」は、いったい誰なのか。

「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計15万部のベストセラーになっている。本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、関ヶ原の戦いの「本当の裏切り者」を解説する。

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(ソース部分続き)
関ヶ原の戦いは「日本史上最大の野戦」
 

Q1. 関ヶ原の戦いはいつ行われたのですか? 

1600(慶長5)年9月15日です。ただし、この日付は「旧暦」で、いまの「西暦」に直すと10月21日のことでした。1598年の豊臣秀吉の死後、台頭する徳川家康に対し、石田三成は密かに家康の排除を目論みます。ちょうどこのとき、会津上杉景勝の謀反が報じられ、家康は討伐のため大坂城から出陣していました。石田三成はこの家康の不在を狙って蹶起(けっき)し、全国の大名に参加を呼びかけます。これが後の「天下分け目の戦い」へと発展します。ちなみに関ヶ原の戦いは、現在に至るまで「日本史上最大の野戦」といわれています。

Q2. 関ヶ原はどんな場所ですか? 

現在も東海道新幹線名神高速道路などが走るこの地は、岐阜と滋賀の県境に近く、古くから北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わるため関所が置かれ、交通の要衝でした。ただ、周囲を大小の山に囲まれた盆地に小さな集落と田畑や荒野が広がる、のどかな場所でした。

Q3. 戦いには誰が参加したのですか? 

徳川家康率いる東軍」は、主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則黒田長政なども含む総勢7万4000。一方の「石田三成率いる西軍」は、西国の大名が中心で、宇喜多秀家小西行長小早川秀秋など総勢8万2000。ちなみに、西軍の「名目上」の総大将は、三成ではなく毛利輝元です。「剣豪の宮本武蔵が、西軍の宇喜多秀家勢の一兵士として戦った」という逸話も伝わっていますが、これは史実かどうか疑わしいエピソードです。

Q4. どのような戦いが繰り広げられたのですか? 

三成による巧妙な采配により、合戦当日は西軍が有利に布陣します。これにより、家康ら東軍は西軍に周囲を囲まれる苦しい戦いを余儀なくされます。しかし、西軍には家康に内応して戦闘に加わらない大名も多く、やがてよく知られる小早川秀秋の「裏切り」によって均衡が破られると、わずか1日で東軍の勝利に終わります。 

小早川秀秋は「なぜ」西軍を裏切った?

Q5.「西軍を裏切った小早川秀秋」はどんな人物ですか? 

豊臣秀吉の妻である「お禰(おね)」の兄、木下家定の五男です。幼時に子どもに恵まれなかった秀吉の養子となり、一時は周囲から後継者とも見られていました。しかし、秀吉に実子、秀頼が誕生したため、毛利家と同族関係にある名門、小早川家の養子となり、その家督を継ぎました。関ヶ原の戦い当時、彼はまだ19歳の青年でした。

■たしかに小早川秀秋は裏切ったが…
 

Q6. 小早川秀秋は「なぜ」裏切ったのですか? 

小早川秀秋は「家康にも恩があった」からです。小早川家の当主となった秀秋は、秀吉の晩年、筑前筑後(福岡県)33万石から越前(福井県)12万石へと転封されて失意に暮れます。これを救ったのが家康でした。秀吉の死後、家康のとりなしによって彼は再び筑前筑後の旧領を取り戻したのです。その「恩」があったために、小早川秀秋の心は当初から「東軍」にあったといわれます。しかし、彼はギリギリまで裏切りを「躊躇」します。

Q7. なぜ「西軍への裏切り」を躊躇したのですか? 

石田三成が提示した好条件に心が揺れ動いた」からです。当時、豊臣秀頼はまだ幼く、石田三成は彼が成長するまでの期間、小早川秀秋に「関白」就任を約束しました。豊臣秀吉の縁者でありながら、秀頼の誕生後は不遇だった秀秋には、「非常に魅力的な条件」に感じられたことでしょう。

Q8. では「最終的に裏切りを決断した理由」は? 

「戦いの趨勢が東軍に有利と見た」からでしょう。家康は戦いの途中、自らの本陣をより前線に近い場所へと前進させます。これを見た小早川秀秋が、戦局は「東軍優勢」と判断し、「西軍への裏切り」を決断したものと考えられます。躊躇する小早川秀秋の裏切りを促すために、家康が鉄砲を打ち込んだという「家康の聞き鉄砲」はあくまで俗説です。ところで、この「東軍優勢」の状況をつくるのに重要な働きをした人物がいました。ある意味では、「真の裏切り者」ともいえる人物です。

西軍を敗北に追い込んだ「真犯人」は?

Q9.「真の裏切り者」ともいえる人物は誰ですか? 

毛利輝元(もうり てるもと)の家臣「吉川広家(きっかわ ひろいえ)」です。彼の父、吉川元春毛利元就(もとなり)の次男で、吉川家の養子となり家督を継いだため、両家は同族関係にありました。吉川広家は一族の中で年長かつ実力者でもあったため、当時「実質的」に毛利家を取りまとめる「中心人物」でした。

■知られざる「吉川広家の3つの動き」
 

Q10.吉川広家は、関ヶ原の戦場で、具体的にどんな働きをしたのですか?
「不利な布陣に苦戦する東軍」を傍観しながらも、これを攻撃しようとする西軍の行動を阻止しました。家康の背後にあたる高地(南宮山)には、西軍約2万9000が布陣しており、家康はつねに後方を脅かされる形で戦わなくてはなりませんでした。その絶好の位置で戦いの様子をじっと見守り続けていたひとりが、吉川広家でした。広家は東軍の苦戦を目の当たりにしながらも、このチャンスに軍を動かすことなく、高地にいた同じ西軍の動きを完全に封じてしまったのです。三成は合戦の途中で何度も広家に「督戦」を促す使者を派遣しますが、「いま弁当の準備をしている」と言ったという「吉川の空弁当」のエピソードも残っています。この結果が家康本陣のさらなる「前進」につながり、ついには「東軍有利!」と思った小早川秀秋に「裏切り」を決断させたわけです。ほかにも広家は、西軍の総大将にかつがれていた毛利輝元関ヶ原に出陣させずに大坂城に留め置くなど、「明らかな西軍への妨害工作」も行いました。

Q11.つまり、吉川広家が、裏切りを誘発した「真犯人」ともいえると? 

そういうことです。吉川広家の働きをまとめると、以下の3つになります。

①西軍の総大将・毛利輝元とその軍勢を大坂城に留め置き、関ヶ原に出陣させなかった

関ヶ原で家康の背後の西軍2万9000の軍勢を「ブロック」して、東軍を優勢に導いた

③東軍優勢の状況をつくり出したことで、結果として小早川秀秋の裏切りを誘発させた

吉川広家の工作によって、最も西軍に頼りとされた3万とも言われる毛利輝元本隊の軍勢は決戦に来援することなく、輝元の子・毛利秀元(1万6000)も家康の背後という絶好の位置に布陣しながらも広家に進軍を阻まれ、傍観を余儀なくされました。こうした一連の動向は、同族である小早川秀秋(1万6000)の裏切りを決断させた要因となったことはまず間違いありません。

Q12.では、吉川広家は「なぜ」裏切ったのですか? 

それには「こんな事情」があります。そもそも吉川広家の西軍参加は、自らの意思でなく「行きがかり上、仕方なく」でした。当初、彼は家康の「上杉討伐」に合流しようと出陣するところでした。ところが、石田三成が突如挙兵し、本家の毛利輝元が総大将に担がれたため、同族の吉川広家も仕方なく西軍の一員となったのです。しかし、「西軍に勝ち目はない」とみていた広家は、親しかった東軍の武将、黒田長政を通じて家康に内応、それと引き換えに「毛利家の存続」を家康に約束させていました。この黒田長政は、小早川秀秋にもたびたび内応の約束を促していました。

関ヶ原の戦いで「誰がなぜ、どう裏切ったのか」を見ることは、たんに歴史を学ぶ以上に、「人間心理」を勉強する格好の材料になると私は思います。

日本史には、ビジネスパーソンが避けて通れない「出世」や「社内抗争」の参考になる教訓の数々が詰まっています。ぜひ日本史を学び直すことで、「知識や教養」に加えて「社会人としての処世術」もあわせて習得してください。人間の本質は、時代を経ても、そう大きく変わるものではないからです。

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある

関ヶ原の戦いを引き起こした直接の導引は、朝鮮出兵をめぐる現地武将と、中央の豊臣秀吉およびその意向に従って行動する石田三成ら奉行衆との対立であり、慶長の役における蔚山篭城戦を機に顕著となる現地武将たちの戦線縮小―撤兵路線をめぐる軋轢と政権の内部分裂であった

関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である

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東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。しかし、この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった。

wiki

4: 2016/09/15(木) 21:33:02.35 id:cIZ3hah30

形式論でいえば石田三成じゃね?

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10: 2016/09/15(木) 21:35:07.03 ID:7SjP+zS20

>>4
豊臣を裏切った徳川じゃない?

390: 2016/09/15(木) 22:26:08.24 id:u9FvSP8E0

>>10
この時点ではどちらも秀頼のために戦ったことになっているので、
まだ裏切っているわけではない。
たぶん、みんなが裏切ったと思ったのは征夷大将軍
秀忠に譲った時点かと。

36: 2016/09/15(木) 21:39:19.31 id:IKvwbz9g0

島左近だよ
右腕のくせに逃げやがった

86: 2016/09/15(木) 21:49:05.65 ID:9sCU6Vbd0

>>36
前哨戦で連勝したのは島左近のおかげだろ
島、島津、長宗我部、明石がもう一回、夜襲やれば確実に勝てるし、立花が来るまでの時間稼ぎができる
って言ったのに聞かなかった三成が悪い
島津義弘が前線の指揮するって言ったのに惜しいわ

57: 2016/09/15(木) 21:44:06.07 id:FMnWfLaC0

ま、吉川広家毛利輝元はひどかったなw
ボンクラだったら大人しくしてりゃ良かったのに。

68: 2016/09/15(木) 21:45:54.70 ID:59aTzH/P0

>>57
毛利も島津も幕末に仕返し出来たから良かったじゃないか
吉川はずっと江戸時代通して毛利家中では肩身が狭かったらしいが

99: 2016/09/15(木) 21:50:27.22 id:m35WhixX0

>>68
吉川広家の息子が毛利輝元の娘を正室に貰って復権している

78: 2016/09/15(木) 21:47:33.92 id:b26Rkuls0

家康布陣したとこ見て西軍側もほとんど毛利の裏切り分かってただろう

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97: 2016/09/15(木) 21:50:07.75 id:ZAOd0RmM0

しかし関ヶ原の開戦があと少し遅れれば立花宗茂が着陣したんだろ
そうすれば西軍のヤル気満々部隊が石田、大谷、宇喜多、立花と頭数が揃い毛利不戦などものともせずにた東軍を圧倒したかもね

300: 2016/09/15(木) 22:16:28.20 id:w5yQdKtS0

>>97
徳川の本体もくるから

118: 2016/09/15(木) 21:53:16.65 ID:7/6y0Chz0

小早川秀秋は怪しいと思ってつけてた三将が裏切らなければ西軍は崩れず勝っていた可能性が高いとな

129: 2016/09/15(木) 21:54:52.45 id:MASRVqmT0

>>118
後詰のはずだった島津のところに軍を出してくれと石田が頼みに行ったのが戦闘開始から1刻ちょっとだから
その時点でかなり終わってる

133: 2016/09/15(木) 21:55:47.12 id:NK1RuACZ0

仮に小早川が裏切らなくても後詰の秀忠と合流されたら
いずれにせよ西は厳しかったかな

229: 2016/09/15(木) 22:08:06.78 id:aeGDWtcB0

>>133
そうなったら秀忠の評価は今と違っただろうな。
遅刻するやつと救世主だもの。

142: 2016/09/15(木) 21:57:53.71 id:utJP/WLQ0

歴史は勝者に都合よく伝えられるもんだけど
小早川は当時から今と同じ評価だったの?

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169: 2016/09/15(木) 22:01:04.49 id:w5GMr8nt0

>>142
小早川秀秋は早死して家を残せなかったので今とそう変わらない評価
前田家みたいに家が残ってれば違ったろうね

210: 2016/09/15(木) 22:06:12.65 id:QHi3iF9n0

そもそも裏切り者という概念自体が徳川史観なんだよな
そこから見なおしたほうがいい

239: 2016/09/15(木) 22:09:48.45 id:fircZhAE0

信長って天下統一したら徳川家をどうするつもりだったんだろな

262: 2016/09/15(木) 22:13:00.09 ID:1mNShfYX0

>>239
家康を招いて光秀に暗殺させようと本能寺で準備してたら
逆に光秀に裏切られたからな

274: 2016/09/15(木) 22:14:09.73 id:PNKfgpDO0

>>239
間違いなく邪魔だから何らかの手を打ったと思うよ
織田が武田を滅ぼした後に武田家臣の多くが徳川家臣になってる
まぁ危険ですわ

377: 2016/09/15(木) 22:24:55.23 ID:3eI0gUuY0

石田だろ
人望実力無いのに家康に楯突いて
豊臣滅亡を速めた
家康は石田の暴走をさぞや喜んでたろ

396: 2016/09/15(木) 22:26:54.72 id:eHOLZncV0

裏切りも何も東軍が勝って正解なんだから英雄だろ()

399: 2016/09/15(木) 22:26:56.91 id:hDRvI9yA0

海外の戦史研究家に布陣図見せたらみんな西軍が勝つと答えたらしいな
秀忠が真田にちょっかい出してて遅れたから千載一隅だったのにな

422: 2016/09/15(木) 22:29:15.31 ID:1WZzXq3d0

>>399
そら徳川の軍勢を西軍が包囲しているように見えるからな
しかしやる気のあるのは石田・大谷・宇喜多とその周辺だけだったという

458: 2016/09/15(木) 22:32:50.85 id:FZXw8Hpz0

いっそ大河ドラマで誰か特定の主人公を据えて1年を通すのではなく、関ヶ原の時期の各大名らの動きを
何週かずつ(人によっては1週でも余すかもしれんが)オムニバス形式?で1年かけて紐解いていったらどうよ

ep1902

551: 2016/09/15(木) 22:42:39.22 id:mb1wLdeY0

小早川隆景があと10年生きてたら関ヶ原も豊臣家の命運も変わってたかな
いや変わらんか

561: 2016/09/15(木) 22:43:24.84 id:mkACj9P30

誰も裏切らなくても負けた、それぐらい西軍の士気が低い

186: 2016/09/15(木) 22:03:26.00 id:Hknm26V10

そもそもその歴史自体ほんとうにあっているかどうか
タイムマシンで当時の闘いみたいな

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